『星の王子さま』 ~私はどう新訳したか~ 河野万里子さん

APPRIVOISER

あまり日常に出てくる言葉ではないのです が、それだけに印象に残る重要なキーワードです。私は当時 『キュリー夫人伝』の新訳にも取り組んでいて、そこで偶然この言葉が出てきました。キュリー夫人にはお嬢さんが二人い て、夫人が仕事で海外に行ったり長く家を空けたりするとき には、お手伝いさん兼家庭教師のような人にお願いしていく。 そういう中で、「今度の人は娘たちを上手に apprivoiser した」 と出てきたので、まさにこれだ!これは「なつく」「なつかせ る」だと思いました。 

それから、誰かを好きになったときに「好きだ」「好きに なった」というかわりに、「もうなついた」「なついているんだ」 という言い方をする人がいて、独特の実感があるしかわいい 雰囲気で、いいなあ、と思っていたんですね。その記憶が『キュリー夫人伝』に出てきたときの言葉と結びついて、迷うことなくこの訳語にしたわけです。 

L’essentiel est invisible pour les yeux.

この本のなかで一番 有名な言葉ですが、それまでの訳書では「肝心なこと」となっています。「肝心」というのは少し古めかしいですね。池澤夏 樹さんも「肝心」とされていて、京都大学の稲垣直樹さんは 「大切なものは目には見えないんだ」。東大にいらした野崎歓 さんは「大切なものは、目には見えないんだよ」としています。 言葉のリズムや軽やかさの点ではいいのですが、essential に は言葉として、「大切なもの」よりも強い意味があります。辞書には「最も重要なもの」「本質的な」という訳語が出てきま す。そこで「いちばんたいせつなことは、目に見えない」としました。 

翻訳の仕事 、皆さまへのメッセージ

文芸翻訳というのは、書き手である作者と読み手である読者の橋渡しをして、作者の意図や願い、作品の感動や素晴らしさを伝えようとするものです。そのためには、今日話したように、作品を読み込んだり掘り下げたり、作者の人生についてわかっている場合は、それについて理解や共感を深めることも大事だと思います。そのときに理解や共感を深められるよう、常日頃、訳者である自分の心も耕しておきたいものだと思います。日常の心のもち方で、文章の読み方や出てくる言葉や表現が違ってくるというのが、文芸翻訳のとても面白いところではないでしょうか。 

でもこれは翻訳だけでなく、普通にいろんな場面で言えるんじゃないかと思うんですね。たとえば、言葉の選び方、伝え方で、相手に伝わる印象とか心に残るものはけっこう違っ てくると思います。それで話がスムーズにいったり、いかなかったりもします。人間関係も良くも悪くもなる。

言葉には 不思議な力があります。ちょっとした一言で人を傷つけてし まう恐ろしさがあります。逆に人を支えたり,救ったりする力も秘めている。言葉にしなくても伝わることもあるけれど、 言葉にしなければ伝わらないものもある。ソフィアンの皆さんは、言葉のそうした不思議な力をこれからも大切になさって、社会で、ご家庭で、ますますご活躍されますようにとい うことを、『星の王子さま』新訳の訳者としての、今日最後のメッセージとさせていただきます。 


会場でのサイン会も大盛況 
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