狩野友信とともに (1) フォンテーヌブロー宮殿蔵「紅葉に青鳩図」への道 [ベルリン 奇跡の邂逅〜幕末御用絵師から明治へ フェノロサとの縁と東京美術学校・シカゴ万博]

狩野派絵画修行と奥絵師時代

けれどもその父が残した本とか古本やメモなど整理しているうちに私の研究者魂に火がついた、といいましょうか、友信の作品と人について後世に伝えるのが自分の使命と考えるようになったのです。

日本美術については全く何も知らなかったのでほんとうに門外漢、無謀なことでした。上智大学では学芸員課程というのを履修して、学芸員の資格は取ったのですが、特に日本美術に興味があったわけではなかったのです。また大学院で学んだジェイムズ・ジョイスについては、他の人が優れた研究をしていましたけれども、友信について専門的に研究している人がなかった、ということもありました。

父が生前に東京芸術大学の史料編纂所を訪ねて入手した、友信が東京美術学校に提出した履歴書がその出発点となりました。それをもとに私が作ったのが、この略年譜です。

狩野友信は天保14年に浜町家九代の菫川中信(とうせんなかのぶ)の長男として築地で生まれ、9歳で画の修業を始めて、16歳で将軍家茂に召し出され、18歳で贈呈品の掛軸を任されて、その後20歳からは洋画修行を命じられました。
そして24歳で明治となって奥絵師としての仕事を失いました。

しかし明治政府に出仕し文部省に雇われて、新しい官立学校の「画学」の教師になったのです。56歳で東京美術学校ができて狩野派絵画を教える機会を得ました。69歳で明治最後の年に亡くなっています。


「翁」三幅対 狩野菫川中信(かのう とうせんなかのぶ)筆 

これは友信の父、狩野菫川中信の書いた「翁」三幅対です。

「三幅対」というのは「三つのセット」ということです。英語ではtriptychと言います。

徳川幕府と共に江戸に移ってきた狩野派ですが、江戸時代には分家して幕末には4家ありました。本家(宗家)の中橋狩野家、鍛冶橋、木挽町、浜町と、その拝領屋敷のあった地名で呼ばれる4家になっていました。

中信は、一番盛んに奥絵師として活躍していた木挽町家の五男だったのですが、跡継のない浜町家を継いで、幕末には奥絵師を取りまとめる幕府の絵事御用頭取を務めた実力者でした。

「翁」三幅対は、今私の手元にあるもので、古美術店で買ったものです。
中央の幅に画賛(注:余白に書き添える詩・文章)がありまして、当時の宝生流の家元である宝生大夫が書いたものです。謡曲「翁」の一節

渚の砂さくさくとして朝の日の色を朗じ 滝の水冷々と 落ちて夜の月鮮やかに浮んだり

と、謡っています。

下には、翁面をつけた、おそらく宝生大夫本人と思われるシテ方が描かれていて、シテ方のつけた衣装や扇を持つ手が本当に素晴らしい絵です。

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