狩野友信とともに (1) フォンテーヌブロー宮殿蔵「紅葉に青鳩図」への道 [ベルリン 奇跡の邂逅〜幕末御用絵師から明治へ フェノロサとの縁と東京美術学校・シカゴ万博]

シカゴ万博 日本館 鳳凰殿

美術学校で7年間教えるのですが、この時代の大きな出来事として、明治26年開催のアメリカの「シカゴ・コロンブス万国博覧会」通称「シカゴ万博」に日本政府が出品するに当たって、美術学校の同僚だった高村光雲や、いろいろな工芸の先生方と協力して出品作を製作したのです。

シカゴ万博 日本館 鳳凰殿(1893年)
友信は襖絵を担当

友信は、日本館としてシカゴの万博会場潟湖(ラグーン)のほとりに建てられた鳳凰殿の襖絵の一部を描きました。もちろん友信は一歩も日本から出ていません。日本家屋の材木を切って、組み立てるばかりにしたものを送って、宮大工が何十人か船でシカゴに渡って、組み建てるところも大きな話題になったのです。アメリカ館や美術館などいろいろな建物が立っている中に、宇治平等院を模して作られ左右対称の日本家屋ができて、湖のほとりに降りたつ鳥、鳳凰のような美しい姿の写真がシカゴ美術館の図書館に残っています。

私はここを訪ねたのですが、このラグーンという場所で、今はもう跡形もないのですが、鳳凰殿の消息を求めて歩きました。今は「大阪ガーデン」という日本庭園になっています。

この襖絵以外に、友信は絵を描きました。岡倉天心のアドバイスで「大きな展示会場で映えるよう、掛軸ではなく額装の日本画を描くように」という指示があり描いたものです。今は東京国立博物館にある「平治合戦図」です。よく知られる平治の乱の一場面で、炎上する三条殿(京都にある御殿)を左奥に配し、画面中央には入り乱れるお公家さんや武士、そして4台の牛車を、独自の絵に仕上げた友信の明治期の代表作です。

「平治合戦図」 狩野友信筆
東京国立博物館蔵 額装 99.5 x 160.6 cm

狩野派の絵師たちは古画を参考に学んで、それを自分独自のオリジナルの絵を描いていたということがわかってきました。
友信が参考にしたのは、鎌倉時代の合戦絵巻物の名作と言われる「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」です。これは実は今ボストン美術館にあるのですね。それで先月まで東京都美術館に出展されて、初めて目にすることができました。絵巻物ですので、広げて展示されていました。

フェノロサは最初日本の美術品をどんどん買っていたのですが、日本美術品の海外流失について問題があるということになって文部省で委員会が立ち上げられ、フェノロサも次第に遠慮するようになって、「誰が買ったか言わないように」と美術商に釘を刺したと言われています。

フェノロサは美術学校でも教えていたのですが、契約が終わってアメリカに帰国しました。自分が築いた日本美術品のコレクションをアメリカへ持ち帰り、ボストン美術館の日本部長に就任して整理にあたりました。ボストンの裕福な医師ウェルドがフェノロサから買い取り、今は「フェノロサ=ウェルド・コレクション」の一部になって、ボストン美術館のホームページで多くが公開されています。

友信がシカゴ万博のために描いた「平治合戦図」は、この絵巻物の炎や牛車を参考に取り入れた作品なのです。

(つづく)

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