今年は江沢国康先生没後3周年となります。亡くなったのは2020年3月10日(享年84)。江沢先生はロシア語学科中興の祖と言える方です。(後述。)
皆さまご存じのように、ロシア語学科の始まりは1957年に上智大学文学部に外国語学科ロシア語専攻が設立されてからですが、その1年後に外国語学部が設立されロシア語学科となりました。その年(1958年)に男子校だった上智大学が男女共学となったのも記念すべき事でした。江沢先生(以降、江沢さんとします。)は1958年入学ですので、ロシア語学科2期生となります。私は翌年入学の1年後輩となるのですが、事情があって1年次後期を欠席したので、1年生を2年やりましたから、4期生です。江沢さんは1936年6月15日生まれ、小中高は学習院で、若いころ胸を病まれていた事もあり、学年が遅れました。私より4歳年上です。
江沢さんは在学中より学科中にその名を知られ、衆目の一致するところ染谷先生の1番弟子です。卒業後は東京外国語大学の1年制の専攻科に2年在籍されたあと(当時、東京外国語大学には大学院はありませんでした。)、上智大学の助手となられました。染谷先生をはじめ初代ロシア語学科学科長ピオヴェザーナ神父の評価も高かったのだと思います。助手として在職中の1960年代中頃以降、全国で吹き荒れた学園紛争の渦中に上智大学も巻き込まれ、授業も満足に行われないような状況(大学のロックアウト等もありました。)で、先生方も嫌気がさして授業をやる気を失う中(学内にはロシア語学科廃止論も出ていたそうです)、江沢さんは学科の事務を一手に引き受け、先生方を励まし何とか学科存続へと導いていかれました。ポツターヴィナ先生が胃癌で倒れられた事も大きかったと思いますが、江沢さんは自らの人脈の中から何人もの非常勤講師を招かれ非常事態に当たりました。江沢さんのご努力のお陰でロシア語学科は存続できたのだと思います。当時早稲田大学大学院博士課程に在籍中の私も1969年6月から非常勤講師となり、翌1970年には外務省ロシア大使館勤務の宇多氏(4期生)と共に専任講師となりました。以降の事は皆さま良くご存じの事と思いますし、また私は1990年に他大学に転職しましたのでそれ以降の学科の事は良く分かりませんので、この辺で筆を置きたいと思います。個人的には、私はいろいろと江沢さんの後を追ってきたように思いますし、生涯を通してお世話になりましたが、これらは思い出話となってしまいますので、これで失礼します。
2023年3月16日 中村泰朗