新宿御苑とフランス

 現在の新宿御苑は周囲3.2キロ、面積58万平方メートル、樹木の種類330種で4万1千本。桜満開の3月31日、久し振りにここを訪ねた。

 もともと、ここは信州高遠の藩主内藤氏が徳川家から与えられた領地で、内藤氏の中屋敷となっていたところである。因みに、上屋敷は神田小川町、下屋敷は下渋谷であった。明治になって、内藤氏は広大な地所を返納し、明治5年(1872)ここは官有地となり、農林省農事試験場(内藤新宿試験場)として農作物の研究がおこなわれ、明治12年(1879)に宮内省に移管され新宿植物御苑と改称された。

この時、後に初代の新宿御苑の苑長となる福羽逸人が農業園芸の実習や加工製造に従事し、退官するまでの約40年間を新宿御苑と共に歩むことになった。

 福羽逸人(1856-1921)は津和野に生まれ、16歳のとき国学者で幕末・明治初年に国事に奔走した福羽美静の養子となった。その後、試験場の実習生となり、明治10年(1877)に津田梅子の父・津田仙の経営する学農社に入り、ここで農芸化学を学んだ。

 明治19年(1886)、播州葡萄園長の実績がかわれて、福羽逸人はフランスとドイツでのぶどう栽培実地研究のため留学を命じられ、19年4月10日フランス郵船に乗ってボルドーへ向かった。彼の帰国は明治22年10月23日で、今度はアメリカを経由しイギリス郵船による横浜着であった

フランス式整形庭園は右手正門(閉鎖)前

 22年、フランスのヴィルモラン家は彼の帰国の際に苺(いちご)の品種を提供し、これが改良され明治31年に甘味の強い大粒の「福羽苺」が生まれることになった。この苺は専ら皇室用に栽培され門外不出のものであったが、明治33年に入りこの苗が各地に分けられ、特に静岡の園芸農家に富をなさしめ、日本人に味覚を楽しませることになった。それでも、この福羽苺はめったに口にできない最高級品であった。同じ頃に、日本の柿がオート・プロヴァンス地方にもたらされ、そこに根付くことになった。

 福羽逸人は明治33年(1900)のパリ万博に菊の大輪作りを出品し驚嘆されたが、この出張の際にヴェルサイユ園芸学校のアンリ・マルチネに新宿御苑の大改造の相談をし、設計の依頼をした。マルチネの設計案を基に5カ年計画で工事が始 められ、現在の庭園に改造されたのは明治39年(1906)のことであった。新宿御苑が一般に開放されるようになったのは昭和24年(1949)5月21日からで、当時の入苑料は20円であった。この庭園を散策されるかたは、池の最下流に架かっているまるで目立たない擬木の小さな橋に気を配ってみてください。この橋は明治38年(1905)にフランスよりわざわざ買い求め、来日した3人のフランス人がそれを現場で組み立てたものでした。新宿御苑とフランス、探すとまだいろいろあるのですが、今回はこれで終わりです。

上智大学フランス語学科同窓会・会報No.9(2003年5月20日発行)より再掲

※掲載内容は発行当時の情報です。
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