日本初の輸入自動車はフランス製

澤　護（S37年卒）

ものの始めに関する事蹟を調べるとき、手っ取り早く一般に利用されているのが、石井研堂の『明治事物起源』(大正15年刊)である。わが国への自動車伝来については、明治33年(1900年)に皇太子(後の大正天皇)のご成婚を祝し、サンフランシスコ在住の日本人会が電気自動車を献納したと書かれてあり、これが長い間の定説となっていた。この車は試運転中に誤ってお濠にドボンするとか土手に乗り上げるとかの椿事があり、こんな危険な品は皇太子には不向きとお蔵入りになってしまった。この件については宮内庁書陵部に記録が残されており、また当時の新聞に｢東宮殿下に献上の自動車｣として記事にされてもいるから、これの裏付けはできる。

　これに対し、同じ明治33年でも数ヵ月早く蒸気自動車ロコモビルが輸入されていたとする説が、この車の輸入に携わったある老人の回顧談をもとに発表された(『日本自動車工業史稿』昭和40年刊)。

　自動車伝来に関しては他に諸説があるが、最近までの有力な伝来正説は以上の二説であった。ところが、もう20年ほど前になるのだろうか、G.ビゴー研究で有名な清水 勲氏が1枚のビゴーの風刺画を提示され、これが本当なら日本の自動車の歴史を塗り替えられるのではと雑談の中で言われた。その1枚の風刺画とは、図１の玩具の車とおぼしきものに乗ったいかめしい顔つきの男が、唖然とした警官や群集の中を砂煙を巻きあげて疾走するものであった。この絵は彼の作品『極東にて』(明治31年2月)に掲載されたが、注目すべき事柄はこの絵の下に｢東京に現れた最初の自動車……｣との仏文のキャプションであった。もちろん、謎解きへの挑戦が始まったのは言うまでもない。

　ビゴーの描いたとおぼしき自動車に関する新聞記事は、調べだしてすぐみつかった。｢東京朝日新聞｣(明治31年1月11日号)は自動車初輸入として簡単な記事を掲載したが、それによるとフランスのテブネなる技師が、馬車の代りに発明されたトモビルと称する石油により自由自在に運転できる自動車を持ってきたとあった。 さらに、この車は同年2月6日に東京･築地と上野の間を試運転したとの続報があり、従来の自動車伝来の定説が2年間も遡ることは確実となった。ビゴーの画は真実を語っていたのだが、彼自身も初めて自動車をみたのであったから、日本人群集と同様にそれは驚いたに違いない。

　この頃の新聞各紙を読んでいるうちに、仏人シーヴエネ氏が持ってきた自動車のイラストが｢報知新聞｣(明治31年3月5日号)にみつかった(図2)。ところが困ったことに、この新聞のハンドルは1本のレバーであるのに、ビゴーのそれは丸型のステアリングホｲールである。どちらが正しいのか、タイヤはゴム製か木製か、さらにランプもなければクラクションもなく、これでいいのかとの疑問が湧きだしてきた。

　現代の感覚ではとうてい思いもよらないはずだが、当時の車はヘッドランプ、ホーン、ウインド・シールドなどはオプション部品で、Tonneauと呼ばれていた。トノーなどは酒樽のことかと思っていたが、意外にも馬車型自動車の意味も古くにはあったようで、車の追跡から初めて知った。 　各新聞によって、さまざまの表記があった仏技師の名前はテブネ(Jean Marie Thévenet 1851-1924)であることが確認され、彼はフランスのパナール・ルヴァソール社(Panhard et Levassor)製造の自動車1896年型を1台携えて来日した。 　この車は日本向けの製品見本として出荷されたが、明治31年3月11日にテブネが宿泊していた築地のホテル・メトロポールに於いて競売に付された。その競売の結果、5,300円までの入札はあったものの落札希望値の6,000円に届かず、テブネは失意のうちに明治31年3月30日にフランス郵船により離日し、自動車もまたこの7月にパナール社に戻された。

　この当時の6,000円は、比較する資料によって当然その換算は大きく変わるが、おおよそ2,400万円が現在の価格といったところだろう。

　ビゴーの1枚の絵に端を発した調査は、従来の自動車伝来の定説を大きく塗り替えることになったのだが、もろもろの事柄の裏付けがなされ、一応の市民権がえられるようになったのは、わずか5年前の1997年になってからである。

　このように、5年10年といった単位の歳月のかかる追跡調査を、授業で喋るとわずか1時間たらずで終ってしまうのがなんともせつない。つくづく割の合わない講義を担当したものだと、日々これ反省である。まｱ、それでも定年まであとわずかだと思うと、頑張ろうとの気にもなる。たとえ、上智の給料が安くても、である。