石澤良昭教授 記念講演会「なぜフランス語か」(1)初めてのカンボジア -フランス極東学院から学んだ「アジア研究」

横浜からまず船でサイゴンへ、そこからカンボジアにある「フランス極東学院」へ行きました。
フランス人研究者が10年、20年、30年と居ついているところで、当時8名の研究者がおられました。
その中の一人が、アンコール遺跡研究の第一人者のグロリエ先生(Professeur Bernard Philippe Groslier) でした。

フランスにおけるアジア研究は、16世紀からイエズス会の神父たちがアジア・アフリカ各地へ宣教活動に出かけ、現場の“生”の情報をたくさんフランスに持ち込んだことから始まります。この時代のアジア・アフリカの諸発見を受けて、ヴォルテール(Voltaire 1664~1778 年)は著書の中に「インドの神々」のことや「中国の仏教」などについて紹介記事を載せていました。そして、1815 年には最高学府の「Collège de France」の中に「中国学(Sinologie)」講座が開講され、さらに1882 年には『アジア協会(Société Asiatique)』が設立されました。異国趣味(Exotisme)をさらに増幅する探検記や旅行記が次々と出版されました。

ナポレオン 3世治下の 1867 年には「東洋語学校」が設立され、それが 1914 年に「国立東洋現代語学校(École Nationale des Langues Orientales Vivantes)(略称ラングゾー)」に改組されました。さらに 19 世紀末からソルボンヌ大学内に、「高等学術研究院(École Pratique des Hautes Études)」が新設され、講義は主として植民地の現地事情講座でありました。

私を受け入れたフランス極東学院はこれまで約 100 年以上にわたり、ゼロからアンコール遺跡研究に取り組み、アジア歴史の舞台に「アンコール帝国」を位置づけたのです。

フランス人専門家が、酷暑のカンボジアに在って 10 年、20 年、生涯にわたり住み、発掘・調査・研究・修復・人材養成などに打ち込む情熱に感動しました。1960年当時、現地のアンコール遺跡保存局でフランス人 8 名の男女の先生方が修復作業に従事していました。

カンボジアは昼間暑いので、朝早く7時から11時まで仕事をします。シャワー、食事のあと昼寝、そして午後3時、4時ぐらいから6時までまた仕事をする。フランス人の先生方は夕方帰ってビールを飲んだりして、夕飯が済んだら、また研究室に入って仕事をしている。夜遅く、11時、12時まで灯がついていて、一心不乱に研究をしていました。
普通は家庭を持っている年齢の方々ですが、皆さん独身で、しかも朝から晩まで研究に没頭しているのです。
途中、非常識ではあったのですが、ジトー先生という女性の図像学(iconographie)の先生へ質問時間をいただいた折に、「失礼ながら、先生はどうして独身でいらっしゃるのでしょうか?」とお聞きしましたら、ちょっとむっとしたような顔をされながらも、「私が今やりたいことはカンボジアの図像学の研究なのだ、だから家庭を持つ時間がない」と言われました。
先生が毎日夜遅くまで仕事をしておられることを知っておりましたし、それだけ熱心に研究をしている人たちがいるのだということを、改めて知ることができました。

私はなるべく先生方とフランス語で話がしたい、少しでも勉強したいという気持ちがありましたけれども、いろいろと先生方にフランス語でしゃべってもらって、やっと聴き分けられる、といった時期でした。フランス語は十分ではありませんが、先生方にしゃべってもらうことで、「ああ、もっとしゃべれなければいけないのだな」ということを自覚したのです。

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