爺さん研究者、人生を振り返る  

 上智時代の1964年は東京オリンピックの年で、私も仲間たちと共に学生通訳の一員として黒の制服を着用させられ、上智大学男子に割り当てられた競技である自転車競技の仏語通訳を務めました。

 話は飛びますが、この都内有名大学のESS学生たちとの交流によって、自分の教養不足を痛感した自分は、のちに駒場東大の教養学科に学士入学することになりました。

フラ研の頃。 (後列右から2人目が筆者)。

2.駒場東大学士入学と上智大大学院国際関係論専攻(第2の核)

 
 一般教養を身に着けるための最も手っ取り早い手段として、学士入学試験を受験して、駒場東大の教養学科に入学させてもらいました(1966年4月)。当時は学生紛争のただ中にあり、キャンパス内では「〇〇粉砕!粉砕!」の掛け声とともにデモ隊が大列をなして行進しているシーンが日常でした。そうした騒乱の中、私などは誰かに「ノンポリめ!」と後ろ指を指されようとも意に介さず、チャッカリ、指導教官のお宅にお邪魔して、寺子屋式授業を真剣に受けておりました。

 個人的な研究としては、Alexis de Tocqueville(トックヴィル)の名著、De la démocratie en Amérique『アメリカの民主主義』を読み進めながら、米国への関心を高めていました。19世紀当時のアメリカでの「草の根民主主義」が現代アメリカ社会でどのように生かされているのかに興味津々でした。

 ところが教養学科大学院への入試面接では、試験官の一人から次のような忠言が投げかけられたのです。「君は、米国研究をやりたいらしいが、日本には米国専門家は五万といるのだ。どうだろう、将来的にはラテンアメリカ研究者を目指す方が良いと考えるが」と。しかもその試験は不合格でした。

 幸運にも、ちょうどその頃、上智大学国際関係研究所が大学院開設の準備中で、私は東大卒の2年後とはいえ、上智大学大学院修士課程国際関係専攻に一期生として入学できました。しかもこの大学院修士課程においてこそ、当時の担当教員たちは高名な学者揃いで、ほとんどがかつて米国プリンストン大学での研究仲間であり、(あるいはそうでなくても)互いに尊敬し合いながら、研究と教育に切磋琢磨するという姿勢が魅力的に感じられました。

 自分の基礎研究の第2の核は、これらのキラ星のごとく輝く諸先生の薫陶を受けて育まれたと言っても過言ではないでしょう。この素晴らしい知的環境で修士課程の2年間を過ごした後、自然の流れのように、博士課程に在籍することになりました。

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