3.フランス留学が決定的(第3の核)
上智大学大学院博士課程入学直後、かねてから憧れでもあったパリへフランス政府給費留学生として赴きました。そこでの3年間は、自分自身の研究や興味の対象が大きく広がり、多方面で自分自身がそれなりの発展を遂げた時期ともいえます(これが第3の核となります)。
具体的には、パリ大学IV(翌年中途退学)や、社会科学高等研究所、またラテンアメリカ高等研究所の各博士課程の授業やゼミで、フランス社会学やラテンアメリカ地域研究を学びました。実は本来、仏政府給付留学の期間は2年間で、当初はゼミに出席しても、周囲のフランス人や外国人ゼミ生の猛烈に早口の仏語が飛び交い、自分はその議論の輪に入るだけの力量が不足していて、ひたすら皆の意見を聴くことに甘んじていたのでした。ともかく1年後にはゼミを社会科学高等研究所に絞り、2年目になる頃には、自分もあと一歩で皆との論戦に参加できそうだゾ、との自信が湧いてきました。そこで、仏政府給費留学期間のもう1年間の延長申請をすると、窓口では「それは了承するが、これから迎える夏休みの3か月間の給付は、後払いになるので、その間はご自身で立て替えておいていただきたい」との返事でした。
いざという時には駆け込もう、と目をつけていた事務所が、シャンゼリゼ通りのど真ん中にありました。それが当時のJTBパリ本店でした。そこで早速そのJTBに駆け込んで、「英仏両語に関しては、同時通訳、観光通訳など、何の仕事であれ、誰よりも早く参上できます」とばかり胸を張って自己宣伝をしたのです。すると翌日には早速、自動車関連の会議での非公式通訳の仕事を皮切りに、次々とアルバイトの仕事が舞い込んできました。
その中でも最も興味深く、自分にも楽しく有益であったのが、日本の有名ファッションデザイナーによるフランス高級レストラン「マキシム」(Maxim’s de Paris)でのファッションショーのための準備会議でした。この準備会議それ自体も、毎週火曜日でしたか、「マキシム」で大テーブルを囲んで行われました。出席者は雑誌”Vogue”の編集長、髪結いのプロ、総合司会の仏人中年女性、さらに日本でも有名な「高貴で由緒ある」マダムSが列席され、またそこで交わされる仏語は、(学生同士の略語の多く、早口会話とは正反対の)優雅で奥ゆかしく耳にも美しく響く仏語でありました。
