爺さん研究者、人生を振り返る  

 ところで上記のマダムSと、くだんの日本人有名ファッションデザイナーK氏とは、仕事上いつのまにか懇意な間柄となっていったようです。またK氏も私を個人的通訳として重宝がってくれました。ある時には、二人で思いがけなくも、S女史から運転手付きで提供された豪華なロールスロイス車に乗せてもらい、当時、大物政治家や映画俳優などのお忍びの場であった、地下の”Regine” という広大な会員制高級バーをのぞき見するという、極めて稀な経験をさせてもらったのもこの時期でした。そこへ通じる1階エレベーター入り口の両脇にいる護衛に「マダムSからの招待です」と告げると、サーッと最敬礼をされて、通されて行ったのでした。

 今、考えてみれば、自分も当時は30歳前後の若者で、普段はパリ大学都市内の「メキシコ館」の一室に居住しながらも、夜な夜な自室に友人たちを招いては、私的国際パーティを楽しんでいたものでした。 さらに個人的には、同じメキシコ館に住んでいたメキシコ人女性でオアハカ出身の身分の高い家柄という大学院学生と、その友人で地方都市出身のこれまた大学院学生の仏人女性とも知り合いになり、三人揃って車でヨーロッパ旅行を楽しんだのも、この頃の忘れがたい思い出です。

こうして夏休みの3か月間は、面白い変わったアルバイトや個人旅行などで、楽しく過ごしていたのでした。
 このように、自分にとっては、フランス留学を機に、外国であれ、どこであれ、研究を基軸にしつつも、これぞと決めると、いとも簡単に自分の領域を拡げ、楽しく豊かに展開していく術を自然に会得したように思います。

 とは言え、10月に新年度が始まる前後には、パリのラテンアメリカ研究所への博士論文提出のための資格試験(口述)があり、それにはなんとか合格でき、論文それ自体はいつ提出してもよいことになりました。
 一方で、東京の上智大学博士課程国際関係論専攻課程の研究科主任からは、そろそろ戻る よう忠告を受けて、急遽、日本に帰国することになりました。
 こうして上智大学博士後期課程は満期退学となり、博士論文は論文博士号としていつ提出してもよいことになりました。以上のように、フランス留学とその後にまたがる学生時代は、ようやく終わりを告げることになりました。

 その後はラテン アメリカ地域研究と国際社会学を専門領域とし、大学で教えてきました。

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