『星の王子さま』 ~私はどう新訳したか~ 河野万里子さん

翻訳の背景 …  キツネの気持ち

最初に触れておきたいのは、キツネのことです。初めて原書を読んだときのことをお話ししましたが、そのときから、 キツネは私の心のなかで大事な存在になっていました。それだけに、キツネの訳については、それまでの訳で満足できない部分でした。読み比べてみましょう。 

キツネと王子さまの出会いの場面

1… それから、あれ、見なさい。あの向こうに見える麦ばたけはどうだね。おれは、パンなんか食やしない。 麦なんて、なんにもなりゃしない。だから麦ばたけなんか見たところて、思い出すことって、なんにもありゃしないよ。それどころか、おれはあれを見ると、気がふさぐんだ。だけど、あんたのその金色の髪は美しいなあ。あんたがおれと仲よくしてくれたら、おれにゃ、 そいつが、すばらしいものに見えるだろう。金色の麦 を見ると、あんたを思い出すだろうな。それに、麦を 吹く風の音も、おれにゃうれしいだろうな…」 

キツネはだまって、長いこと、王子さまの顔をじっと 見ていました。 
「なんなら…おれと仲よくしておくれよ」と、キツネが いいました。 

(岩波少年文庫 内藤 濯 訳) 

2… あそこを見ろよ! あれは小麦畑だろ? おれはパンは 食べない。小麦なんかおれには無用だ。小麦の畑はおれに何も訴えない。これって悲しいことだ! でもきみは 金の色の髪をしている。きみがおれを飼い慣らしたら どんなに素晴らしいだろう! 小麦は金色だから、おれは小麦を見るときみを思い出すようになる。小麦畑を渡る風を聞くのが好きになる…」 

キツネは黙って、長いあいだ王子さまを見ていた。 「お願いだ…おれを飼い慣らしてくれ!」 

(集英社文庫 池澤夏樹 訳) 

3…それに、ほら! むこうに麦畑が見えるだろう? ぼくは パンを食べない。だから小麦にはなんの用もない。麦畑を見ても、心に浮かぶものもない。それはさびしい ことだ! でもきみは、金色の髪をしている。そのきみがぼくをなつかせてくれたら、すてきだろうなあ! 金色 に輝く小麦を見ただけで、ぼくはきみを思い出すようになる。麦畑をわたっていく風の音まで、好きになる…」 

キツネはふと黙ると、王子さまを長いあいだ見つめた。 「おねがい…なつかせて!」 

(新潮文庫 河野万里子 訳) 

翻訳によって、受けとるイメージや感じがずいぶん変わる ことを実感していただけるのではと思います。これだけの部分でそうですから、一冊を読み終わったときには、心に届くものや感動が違ってくると思います。内藤濯さん、池澤夏樹 さんの「おれ」には違和感がありました。 

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