キツネはシャイで繊細、しかも王子さまに大切なことを伝える存在です。それがなぜ「おれ」という強い言葉なのか。 何か違うなぁ、と思っていたんですけれど、訳されたときの時代背景もあったのかもしれません。動物だけで擬人化された話ならともかく、人間と動物が一緒になって出てくるお話だと、 当時は動物や家畜が一段低い存在に見られていたようです。 下下の者といった感じです。
でもそれ、『星の王子さま』では やっぱり違うと思うんです。動物でも、王子さまに大切なことを教える存在であるなら、王子さまと同じか、ちょっぴり高貴な感じさえあってもいい。しかも「遊びに来るならいつも同じ時間に来てほしい。それを待つ間の時間さえ大切にしたい。 なつかせて」なんて言う感受性の強いキツネなので、それならもう「ぼく」以外に訳語はありません。それもひらがなで書く優しい「ぼく」ですね。漢字の「僕」では強い感じになります。
個人的にはこのキツネの気持ちって「恋をしている女の子」 と同じではないかと思っていました。だから新しい訳ということで、日本語では女の子にしちゃって、ちょっぴり恋のときめきを感じさせるような訳をつけることだって、できないわけではない。
著者の評伝を調べていて知ったのですが、実はこの感じは大当たりで、キツネのモデルが実在していたのです。当時サンテックスの恋人だった女性で、シルビア・ラ インハルトというアメリカ人です。ステイシー・シフという 人が書いた『サン=テグジュベリの生涯』(新潮社刊)という 本に写真があります。この本の訳者はやはりフランス語学科卒の檜垣嗣子さんです。
シルビアは『人間の土地』 を読んで凄く素敵な本だと 思っていたそうです。英語版 のタイトルは『風と砂と星 と』と英訳され、全米図書賞 を受賞、サンテックスは「時 の人」でした。
二人はカクテルパーティーで知り合ったのですが、フランス人のサンテックスは英語を覚えようと せず、シルビアはフランス語がわからない。言葉が通じな いので、身振り手振りをいっ ぱい入れた二人だけの言語を編み出したそうで、その経験 が ま さ に 『 星 の 王 子 さ ま 』 の 重要なセリフのひとつになりました。
キツネが「ことばは誤解のもとだから」と言う箇所 です。同じ時間に遊びに来てとも言いますね。「たとえばきみ が夕方の 4 時に来るなら、ぼくは 3 時からうれしくなってくる。 そこから時間が進めば進むほど、どんどんうれしくなってく る。とうとう 4 時になると、そわそわしたり、どきどきしたり。 こうして幸福の味を知るんだよ」
これも全く同じことをシルビアがサンテックスに言ったそうです。また、物語の前半「おねがい…ヒツジの絵を描いて!」のヒツジも、シルビアが飼っていたプードル犬がモデルになったそうです。
それでもなぜキツネを女性として訳さなかったか。それは、サンテックスが人類の絆や連帯ということを、常に考えている人だったからです。
『人間の土地』『戦う操縦士』『夜間飛行』 から伝わってくるサンテックスの思いを考えると、『星の王子 さま』のキツネとの場面は、恋や愛の話ではなく、もっと大 きな人間や人類全体、そして人生に関わる普遍的な話にしたかったに違いないと思いました。
一方、恋や愛の話は、バラ の花に託されています。キツネの王子さまとの出会いの場面 は、そのようなことを考えながら日本語にしました。