フランスによるアンコール王朝の歴史解明作業
ヨーロッパの歴史をさかのぼると、フランスは 17~18 世紀にかけてヨーロッパの覇者でした。加えて、フランスは「ヨーロッパ文明宣布の使命」(Mission civilisatrice)を主張していました。確かにフランス革命(1789~1799)後の 19 世紀半ばから 20 世紀前半まで、ヨーロッパ人の探検家たちによるアジア・アフリカの奥地の大発見が続きました。フランスは 19 世紀からインドシナ半島の植民地化をねらって進出、カンボジアは 1863 年にフランスの保護国となりました。カンボジアはフランスの植民地になることにより両隣国のタイとベトナムの軛(くびき)から逃れることができたのです。
しかし、フランスの誤算は、カンボジアが鉱物資源もなく実際に採算のとれない植民地だったことです。現地では厳しい放置政策が続きました。1930 年代になって、アンコール遺跡の彫刻類や浮彫りの出土品を展示する博物館(現在の国立プノンペン博物館)が建設されましたが、国内の教育施設といえばその付属の美術学校のみでした。
1931 年には「国際植民地博覧会」がパリで開催され、高さ 65 メートルのアンコール・ワットの 5 基の尖塔が広場に再現され、フランス人はワットの威容に驚き、6 ヵ月間で約 3,400 万人が入場したということです。(藤原貞朗『オリエンタリストの憂鬱』, めこん, 2008, pp.349-352)
ヨーロッパで覇権を争ってきたイギリスが、エジプトのピラミッドを中心としたナイル文明を解明しようとするならば、「我がフランスは密林の奥地に眠るアンコール文明を解明する。」
いやがうえにもフランス人の心根をくすぐり、アンコール王朝の歴史発掘の大事業こそは、文明宣布の役割をまっとうしようとするフランスの開拓精神なのでした。
こうして、フランスは、アンコール王朝の末裔としてのカンボジア人を褒め上げましたが、現実にはカンボジアを 19 世紀のままに放置しておく放置政策がとられていました。