石澤良昭教授 記念講演会「なぜフランス語か」 (2)フランス極東学院によるアンコール・ワットの研究

ハノイにフランス極東学院(École Française d’Extrême-Orient)を創設

フランスは国策として植民地経営とアンコール遺跡の保存・修復・復元の活動を開始しました。
1889 年にサイゴン(現在のホーチミン市)で発足したインドシナ考古学協会を、1900 年に国立フランス極東学院として新たに再組織化、本部を 1901 年にハノイに移しました。当初この学院は、仏領インドシナの言語・文化・社会・経済などを調査し、植民地経営について役立てる政策を策定することを目的としていました(1907 年に発足した日本の「満鉄調査部」に類似)。フランス極東学院が1901年にハノイにできたことで、何人かの優秀な研究者が入ってアンコール研究に力を入れたのです。カンボジアを中心に、アジアのいろいろな地域を専門とする歴史研究者が集まりました。その中には、ポール・ペリオ(Paul Pelliot)というsinologue(中国学研究者)もいて、敦煌へ行って経典をカンボジアへ持ち帰りました。

極東学院は、重厚な新しいアジア研究論文および詳細な現地の調査報告を『フランス極東学院紀要(BEFEO)』に次々と発表し、さすが文化大国フランスという面目躍如の感がありました。さらに、この BEFEO のほかに同学院には、調査・研究を収録した出版物 <Publications> および文献解題研究集の覚書<Mémoires> のシリーズ刊行物があり、世界のアジア研究をリードしてきたのです。

1907 年にはタイから、旧アンコール王朝領の西北カンボジア旧 3 州が返還され、極東学院は 1908 年に「アンコール遺跡保存局(Conservation d’Angkor)」を現地アンコールに発足させ、活動がさらに加速されました。

約 90 年近くに及ぶ仏領インドシナからカンボジアは 、1953 年に独立しました。しかし、フランス極東学院との協定によりフランスのこれまでの権益と国策はそのまま継続されました。
同学院と上智大学との間には学術協定(Convention entre l’Université Sophia et l’Ecole Française d’Extrême-Orient、2003 年)があり、現在も研究交流が続いています。

極東学院は 2001 年の創立 100 周年祝賀会の会場では、その学術成果物などを天井に届くまで積み上げ、文化大国フランスを誇示しました。
しかしながら、同学院の保存修復チームは 保存・修復を担当していた「西バライ(貯水池)」遺跡から2019 年に撤退し、これまで 111 年間にわたり続いてきた保存修復の実務から手を引いたのです。

ポール・ペリオ(Paul Pelliot)1909年
© Wikimedia Commons
敦煌の莫高窟(ばっこうくつ)蔵経洞で
文書・経典などを調査するポール・ペリオ
© Wikimedia Commons
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