石澤良昭教授 記念講演会「なぜフランス語か」 (2)フランス極東学院によるアンコール・ワットの研究

セデスはその研究成果に満足せず、1965 年に「クメール学研究の将来」と題した講演の中で次のように述べています。

「カンボジアの碑文の解読が開始されて百年あまりになろうとしている(中略)。それらの研究成果は、碑文の史料的な性向からどうしても王朝史、美術、宗教等の分野に偏りが見られるのであった。苦労してカンボジア王国の隆盛をつくり出し、その手でアンコールを建設したが、[その当時の]彼らの技術、習俗、諸信仰、また、その経済的、社会的構造は、未だほとんど知られないままに残されている。社会科学(の方法論)を身につけた若い研究者たちが、新しい(研究)方法論を用いて経済・社会の調査・研究に取り組んでくれるとするなら、それはほかならぬクメール文明のこうした諸相に関する研究である。」 (Cœdès, G : L’avenir des études khmères, BSEI N.S. XL, 1965, pp. 207-213.)

セデスは研究者たちにさらなる綿密な調査と研究の継続を求めたのでした。
碑文のほとんどは寄進について言及し、そこには功徳による極楽浄土への願いが述べられ、寄進品の数量や生産地などが欠落している。そうした碑刻文からは経済活動を知ることができない。

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カンボジアで碑文を読んで歴史を綴る、という研究活動を行っていたわけですが、お寺に寄進する文章というものは決まりきってもいるし非常に個人的なものですから、年号とか寄進する畑の広さといったものは全然書いてありません。つまりアンコール時代の社会と経済活動はわからない。

カンボジア碑文の学碩 G. セデスは、本拠地アンコール地方の周辺地域をさらにくわしく考古調査し、立論できる社会的・経済的証拠の史実で炙り出すよう求めたのです。セデスは、1965 年の時点で碑文史料には限界があり、これ以上碑文によるアンコール王朝史の解明は不可であることを認めたのです。碑文そのものが「断片的」であり、史料内容の「限界性」およびその「偏向性」に気付いていたのです。

バイヨン第1回廊東面の浮き彫り。回廊にいきいきと描かれた人々の暮らし、農村の光景は今に通じるものがある。© Sachiko Tanaka 2017
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