石澤良昭教授 記念講演会「なぜフランス語か」 (2)フランス極東学院によるアンコール・ワットの研究

こうしたセデスの決意を受け、1970 年代のカンボジアの政治混乱中にもかかわらずアンコールの現場に残り、これらの調査・研究活動を続けた研究者は、ほかならぬ B.P. グロリエでした。

グロリエはセデスのこの指摘を聞き入れ、地道な遺跡現場と貯水池周辺の広域にわたるもとの田地跡の調査を続け、1979 年にこの「アンコール王朝水利都市論」La Cité Hydraulique という概念を提起しました。数百に及ぶ貯水池(バライ)の取水口と排水口を綿密に調査しながら、調査地図上に落としていったのでした。地道な作業でした。

ここに 1979 年の雄編『アンコール王朝の水利都市―開発か、それとも乱開発か?』( Groslier, B. Ph.: “La Cité Hydraulique Angkorienne, exploitation ou surexploitation”, Bulletin de L’Ecole Française d’Extrême-OrientBEFEO),Tome LXVI, 1979, pp. 161-202.)を再検討すると同時に、併せて後続のJICA・上智・NHK の調査および NASA とフランス極東学院の調査報告を詳しく調べ、「アンコール王朝」から大繁栄をもたらした「アンコール帝国」への発展を提案しています。

結論から言いますと、「アンコールはどうして短時間で寺院がいくつも建てられたのか」という疑問への究極の答は、米を年に2回作っているという結論なのです。雨季には農民たちは雨水を畑に入れて田植えの作業をする。雨季の雨水をダムに溜めておいて、乾季にはそのダムの水を使って作る。年2回お米ができるということは、単純に扶養人口が2倍になる、作業員も2倍になる。
アンコール・ワットを造るのは全部手作業ですが、それが可能になったのは米の二期作を行っていたからであるとの結論を、現在導き出しつつあります。

西欧が見たアンコール― 水利都市アンコールの繁栄と没落
ベルナール・P・グロリエ著、石澤良昭・中島節子訳
連合出版 (1997年)

アンコールワットは誇大妄想狂の王が自分の来世のために作ったものではない。都城は巧みな水路網と一つのシステムでつながり、時間と空間が秩序づけられていた。水利都市の概念構築を提起する。

―アンコール・ワット建立の経済活動解明に挑戦―

石澤良昭 編著
上智大学出版(2023年)
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