狩野友信とともに (1) フォンテーヌブロー宮殿蔵「紅葉に青鳩図」への道 [ベルリン 奇跡の邂逅〜幕末御用絵師から明治へ フェノロサとの縁と東京美術学校・シカゴ万博]

上智大学フランス語学科同窓会・オンラインイベント(2022年10月15日)

山田久美子さん(1975年卒)による講演会の全文(1)

抄録を会報41号(2023年2月25日発行)に掲載

図版は原則として『狩野友信―最後の奥絵師、幕末・明治を生きる』(水声社、2021年)掲載のもの、および講師所有の写真。
それ以外については出典を図版の下に明記する。

はじめに 

「フラ語卒業生によるフラ語卒業生のための勉強会」オンラインでの開催は初めてと伺いました。いろいろな分野で活躍していらっしゃる方がおいでになる中で、私がお話をさせていただくこと、本当にありがたいと思っております。
75年卒の旧姓中尾、山田久美子と申します。
専門はアイルランド文学、広島大学大学院を経て、20世紀アイルランドの小説家ジェイムズ・ジョイスについて研究しています。

この度、私は曾祖父で明治の日本画家、狩野友信の伝記を出版しました。それを会報に載せていただきたいとご連絡したところ、こういうお話をいただきました。今回フランス語学科同窓会でお話しするにあたって、特にフランスと関係のあるところを中心にご紹介できればと思っております。

ベルリンで入手した山水図

最初にベルリンで入手した山水図について、狩野友信との出会いからお話ししたいと思います。

このモノクロ写真に写っているのは母と妹と私です。1955年から59年まで外交官の父、中尾賢次に同行して、私達は壁ができる前の西ベルリンで暮らしました。東京からプロペラ機で片道30時間以上かかったそうです。当時のベルリンはまだヒットラーが自殺して10年後ですので、瓦礫が残っていたのです。そういうちょっと物々しい雰囲気を覚えております。母は父と12歳違いで初めての海外生活でした。父は終戦をモスクワで迎えましたけれども、戦後初めて赴任したベルリンでこのような西洋風の生活に慣れるにつれて、おそらく新しい時代を感じたのではないかと思います。

1955年 ベルリンに赴任。
狩野友信筆 「山水図」を入手。

「山水図」狩野友信筆 個人蔵 絹本墨画金泥
121.8x 56,5 cm

そんなある日、その西ベルリンの繁華街-銀座のようなところですが-クアフュルステンダム大通りにあった日本総領事館の事務所から少し歩いた古美術店で、父は偶然にこの掛軸を見つけました。

  父が両親に送った葉書です。1955年のことですね。11月にベルリンに行った年の暮に、年賀状代わりの絵葉書を日本の両親に宛てています。最近母が荷物を整理していて出てきたものです。

謹賀新年、昭和31年元旦

遥かに皆様のご健康をお祈り申し上げます。先日全く思ひがけなく、当地の繁華街(この絵葉書が示す)クアフルステンダム通りの骨董屋の奥で、狩野春川の山水画(屏風の一曲で幅三尺、長さ五尺ぐらいの絵で細かい筆遣いの山水で、下の方に東屋みたいのがあり、小さい人物が三、四人いて滝を眺めている)を見つけたので早速買ひ求めました。「春川藤原友信筆」とあり、狩野春川の印があります。賢次

母が 新年のおよろこびを申し上げます と書き添えています。

このかなり大きい掛軸は以来ずっと家にあるのですが、日本に戻ってから表装し直して、その後ポーランド、ソ連、アフガニスタン、エチオピア、東ドイツと、行く先々で客間に飾られました。

私の記憶の限り家にあったのですが、地味な山水画なので、子ども心にはご先祖様が描いた中国の景色、という程度の認識だったのですね。実は絹地の裏に塗られた金泥が浮かび上がる華やかな絵で、描いたときに18歳とはとても思えないほど上手ですよね。

やがて父は東ドイツ大使を最後に退職して日本に戻り、展覧会などに通い、友信について少しずつ調べ始めました。
私はちょうどその頃就職して、子育てと仕事に忙しかったので、友信の話を父とするまもなく、父は27年前に亡くなってしまいました。

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