明治になって開成学校、東京大学予備門から東京美術学校へ
こうして友信は明治になって24歳で職を失いましたが、洋画修行の人脈と修行を役に立てて、開成学校(今の東京大学の前身)、東京大学予備門などで「画学」を教えるようになります。友信の洋画作品は実はひとつも見つかっていません。
「画学」、「図学」というのは、医学などを学ぶ基礎として教養課程で学んだもので、いわゆるデッサンです。教科書も、友信が協力して作りました。
東京大学予備門で同僚だった外国人教師のアーネスト・フェノロサを紹介されたのは、ちょうどこの頃でした。フェノロサのほうが少し歳が若いのです。
アーネスト・F ・フェノロサ
(1853-1908)
これは若い頃のフェノロサの写真です。
フェノロサは東京大学で社会学を教える人が必要ということで、一時帰国中の大森貝塚のモースにスカウトされて、ハーバード大学を卒業したばかりで日本にやってきました。とても条件が良かったので幼なじみのリジーとと結婚して新婚で日本へやってきたのです。
東京大学では加賀屋敷と呼ばれる本郷の前田藩の敷地内に洋館ができて外国人教師たちが「1号館」、「2号館」というふうに住んでいました。そこから人力車で開成学校あるいは予備門に通っていたのですが、フェノロサは、美術品に興味を持って、もらっていた高額の給料をつぎ込んで、当時日本で二束三文で売られていた日本の古美術を次々と買い求めるようになりました。
その鑑定に、フェノロサは友信、そして友信の紹介で知り合った狩野派の絵師たちを自宅の加賀屋敷に招いて意見を聞いて、それをノートに詳細に書き留めています。フェノロサは人の意見を書くだけでなく自分の意見も書いて、実際に鑑識眼を養っていくのです。
友信とは歳が近いということもあって、アメリカに戻ってからも終生親しく付き合って、フェノロサは1908年と友信より前に亡くなるのですが、その後Epochs of Chinese and Japanese Art (東洋美術史綱)という日本美術史の本を2度目の妻が中心になって出版するのですが、校訂のため日本にやってきたときには、友信も協力しました。
これは「西洋風画室の狩野友信」です。
フェノロサの家、あるいは誰かフェノロサの紹介で知り合った外国人の家で描いているところでしょうか。
明治になって来日した外国人画家や実業家の多くが日本の伝統絵画を求めて友信を訪ねました。当時はお寺の借家に住んでいました。このように外国人のところに出向いて、出稽古をしていたようです。