狩野友信とともに (1) フォンテーヌブロー宮殿蔵「紅葉に青鳩図」への道 [ベルリン 奇跡の邂逅〜幕末御用絵師から明治へ フェノロサとの縁と東京美術学校・シカゴ万博]

東京美術学校開校「教師集合写真」

明治22年になって、東京美術学校が開校します。これはフェノロサやフェノロサの教え子で文部官僚になっていた岡倉天心の力が大きかったのです。

友信は開校前年に病気で亡くなった狩野芳崖(かのうほうがい)のかわりに教えることになって、橋本雅邦(はしもとがほう)は教授になり、そして友信はいずれ助教授になるのですが、そこで狩野派で学んだ日本画の画法なども教えて、そこから横山大観(よこやまたいかん)や菱田春草(ひしだしゅんそう)など、明治の代表的な日本画家が育ちます。


「教師集合写真」 
『日本美術院百年史』一巻下[資料編] p.10

「教師集合写真」では友信は後列右側に映っています。既に少し歳をとっています。岡倉天心の趣味なのですけれども、開校当時の美術学校の教師と学生は、この「天平服(てんぴょうふく」と呼ばれる制服に、制帽、アザラシの皮でできた靴みたいなものを身につけることになっていました。開校後、明治22年の憲法発布のときには皇居前広場の式典までこれを着て行ったそうです。上野辺りですごく目立つので学生たちは嫌がっていたようですね。

この写真を見ると、左にいる巨勢小石(こせしょうせき)という人は下駄を履いていますし、中央は橋本雅邦(はしもとがほう)、川端玉章(かわばたぎょくしょう)ですが、下に袴を履いていたりして面白いですね。自由だったのでしょう。

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