上智大学外国語学部フランス語学科に入学したのはパリの5月革命の1968年でした。地下鉄で四ツ谷駅に着く時は、一瞬トンネルを抜けるので、明るい空の下、急に現れる上智大学のグラウンドがいかにも開放的に見えました。
思い出せば入学の頃は周りの世界が輝いていました。まさにフレッシュマンと呼ぶべき前途洋々の感が有りました。男女各25名で50名のクラスでしたが、暗い一浪生活の後に入学したせいもあったのでしょう、女子学生の明るい表情と華やかな服装や、賑やかなざわめきで、学内も教室も光にあふれていたような気がします。
オリエンテーリングは今も行っているのでしょうか。入学早々学科の先輩が何人もボランティアで新入生を泊まりがけのバス旅行に連れて行ってくれました。2年生、3年生、4年生の先輩が世話役になって我々新入生の面倒を見てくれました。カラオケも無い時代でしたので、バスの車内で僕はあのころ好きだったカンツオーネの「カタリー」を恥ずかしげも無くアカペラで歌ってしまい先輩からからかわれました。
しかしそうした能天気の裏では社会のうねりが、学生運動の波が、じわじわと押し寄せていました。1号館の小さな教室で50名の新入生がリーチ先生やロベルジュ先生などによるフランス語基礎の授業を受け始めましたが、それもつかの間、学費値上げ反対や、退学処分撤回問題、ベトナム戦争反対、産学協同反対など、大きな波が日本国中の大学などに押し寄せて全共闘運動が激しくなり、上智大学はいち早く学内に機動隊を導入し、1号館を占拠していた学生を排除、ロックアウトをしいたため授業は校内では行われなくなりました。しばらくたってから校内で授業ができるようになっても、様々な集会のため授業のボイコット等も頻繁に行われていました。
そうした厳しい時代状況のなかでも学生生活は楽しい面も多かったと思います。フランス文化研究会というクラブに、いくつかのセクションがありましたが、僕はそのなかの演劇サークル「ルマスク」に所属し、ラシーヌ、ベケット、サルトル等の公演に参加。1号館にあったホールのステージに立ちました。50年以上たった今でもその頃「ルマスク」にいた先輩や同級生とは旧交を温めています。